何が正しくて何が間違っているのか?という話
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色々な説があるが、何が正しくて何が間違っているのか?という話
風水師の但馬檀です。
最近、ずっと守ってもらっているのだなぁと、気づくことが多くなってきました。
とてもありがたい事です。
ところで、私が風水を勉強していた時のこと。
大老、つまり当時の師の師匠が、はるばる日本にいらっしゃいまして、特別公演をして下さいました。
高齢にも関わらず、いらして下さいまして。
そして一言、普段私たちが学んでいる技術とは、全然違うことを仰ってから、その日の講義が始まりました。
一つ覚えれば充分
ちなみに私、その一言しか覚えてません。
というか、意味がよくわからなかったので、そこだけ鮮明に覚えているのだと思います。
いきなり、なんでそんな話をしたかと言えば、この時に初めて空を見て「鳳凰と龍が歓迎してる」と、今まで見えないものに関しては超否定的な私が意味もなく思い。
その後、但馬は急にこの先生の講座に行かないという選択をしはじめたのです。
今になって思えば、大老の、この一言を聞くためだけに、何年間かおまちしていたのかなと思うのです。
今でも、ある一人の方に出会うためだけに、その場所へ向かったのだなと、あとから思うことが、但馬には良くあります。
風水もそう。
たった1つのことを学ぶだけにそこにいることも多いです。
正しいのは◯◯
技術については「◯◯先生の技術は素晴らしいもので、正統なものである」ですとか、「いやいや、●●先生が、正しい事をおっしゃっている」など、言う方がでてきます。
で、今回はどちらが正しいの?と、言う話です。
私たちは、様々な価値観の中で生きています。
おそらく、誰一人として、全く同じ価値観の方はいません。
あなたの人生にピッタリあう価値観の人なんて、万に一人もいないでしょう。
全てがその人にとっては正解
しかし、その人にとっては、その世界が全て正しいのです。
愛がすべての世界にいる人は、愛がすべての判断基準です。
権力が最優先項目の世界にいる人は、そういう世界に住んでいます。
つまり、それぞれが、それぞれ選んだ世界にいて、同じ空間を共有しているのです。
それぞれが、それぞれの課題を持って生まれ選んだ人生。
そこに、正しいとか誤っている、というのはないです。
目的を達成する方法はあるが、正しいかどうかジャッジする必要はない。
例えば、お金を稼ぎたいと思えば、その方法はあると思います。
しかし、お金を稼ぐことが全ての人にとって正しい事かといえば、そうではありません。
また稼ぎがなくても人のために動くことが正しいかといえば、そうでもありません。
お金がなければ出来ないことが世の中にはたくさんあります。
お金だけで解決できないことも、もちろんあります。
ボランティアをするための資金を寄付で調達するのは、一見良さそうに見えますが、寄付した人が強盗犯である可能性もあります。
そうなると、人が悲しんだり苦しんだお金を使うので、良くないエネルギーの循環が起こる可能性だってあります。
不倫恋愛がよくないなら、大奥は成り立ちませんし、江戸時代は300年も続かなかったでしょう。
貧しい町民は、複数の男性が一人の女性を養うのがやっとだったそう。
多夫一妻という図式が本当にあったといわれているのもこの時代です。
いつの世も正義という価値観は変化します。
問題を解決するのと、それが正しいかどうかについては、決めることは出来ないでしょう。
他人を違うと思うことは、己も違うという事。
ただし、その方法を、自分自身が好きかどうかは、すぐわかります。
これは本人の好みだからです。
引き寄せの法則で行けば、他人を見て違うと思う時点で、自分も違います。
正しい論を持ち出すという事は、他者を否定する事になります。
この時点で、戦闘態勢を取っている事になります^^
戦いから調和は生まれません。
ですので、問題解決にはつながらないでしょう。
価値観が違う人との付き合い方。
要するに、他の人は全員価値観が違うと思ってよいのです。
似ているかもしれないけど、違う部分もある。
そうしたら「私はこう思う」と、わかってわかってって言っているだけでは、コミュニケーションは成り立ちませんね。
相手に期待をしているからトラブルが起きます。
わかってと言って「そうね」と理解してくれるのは、親とあなたを盲信しているファンか寛容なパートナーくらいです。
大人になったら、相手の意見も受け入れることが良いコミュニケーションをとるためには必要です。
してほしいことは、まず自分からする事。
まずは相手の言ったことをやってあげる。
どうしても問題が出そうな場合は、リスクを伝えて妥協案を提案する。
パートナーシップとの関係であれば、また少し違いますけどね。
これで相手がゴリ押しするなら言うとおりにしてあげる。
お金が絡まないものなら、うまくいかなかったら、心の中で「ほらねー」って思うだけの話。
相手の人生です、自分が必要以上に干渉する必要はないのです。
傲慢は「業満」ではないかと思う事があります。
傲慢という言葉があります。
アドバイスなどをした際、逆切れしたり反発する方がいますよね。
まぁ、子供みたいに「今やろうと思ったのに、言われたからやる気なくした」と、言うのと同じレベルですが、まぁ大人もやります。
で、アドバイスした側は、たいてい「言ってやったのに」と、思うのです、多かれ少なかれ。
つまり、「傲慢」
相手が望まないことをして、結果、相手の業を引き受けてしまうのではないかと。
ですので、「業」が「満ちる」。
「業満」にもなるのかなぁと、たまに思います。
そこまでして、苦行をしなくてもよいでしょうと、思うのは私だけでしょうか?
私たち、修行僧ではないのです。
これも本人が望んでやっている事です。
ただし、楽しく生きたいならもちろん方法はある訳です。
家系のための苦行とはいったい何でしょうか?
家系が良くないことを繰り返した場合に、それを清算するために、一生他人のために業を背負う・施しをする、という話もあります。
しかし、実際により多くの人のために、役立つことをしようとすれば、たくさんの人が喜ぶ事業を興し、たくさん稼いで人を雇う。
きちんとお金を回し、働いている人が安心して暮らせるようにする。
他人を気にしている暇があれば、自分の道をまい進する。
これが、長期的にみて、1番多くの人の、役に立ち、幸せにする事ができます。
そうなると、貧しく地位がなくても施しをする、という方法については矛盾が生じる訳です。
これはあくまで結果論です。
Originally posted on 2017年6月29日 @ 5:14 PM